久しぶり。って毎回書いてるからもうわざわざ書かなくていいかな。

金曜に会社を飛び出して群馬へ。
父親の一周忌と祖母の三回忌でした。
うちの法事には珍しい、雨が降る土曜日。
お寺の猫も、いとこの子供も、別のいとこの婚約者も参列してくれて、
時の流れを意識させるような面々になってきました。
うちは家族が減るばかり、
いとこの家は順調に枝葉を伸ばしていっていて
両家が分かれて席に着くとそれは浮き彫りに。
でも、だからなんだってわけではない。
もう頼れる大人は母一人、時々母が今死んでしまったら?とか
生き長らえても、私達のことがわからないようになってしまったら?とか考えて涙が出てきたりする。
自分はちゃんと親孝行ができているだろうかとか
母だけはきちんと看取りたいと思うそばから母の死に顔を想像して泣きそうになったりする。
もうすぐ還暦を迎える母は、どう見積もっても私より長く生きることはないと思う。
たとえばあと50年は絶対に生きられない。
いつかはわからないけど、もう母と会話をしたり、顔を見たり、母の料理をたべることができなくなる日が絶対に来る。
想像しうる不幸の中で、母が死んでしまうことが一番の打撃になると思う。
冗談を言い合ったり、読んだ本をすすめ合ったり、重いのも軽いのも合わせて思い出話をしたりはするけど、
誰にもしてこなかったように、母にも相談事を持ちかけたことはない。
他に冗談を言っていろんな話をするまわりの人達と、母は何が違うというのだろう。
一種の戦友のような感覚が私達の間にはある。
他の家族との間にはなかったものを共有してきた。
照らし合わせる思い出をお互いが符合するカードのような形で持っていて、
いつかそのカードをめくり合わせることができなくなるのが今から悲しいんだと思う。
悲しくなりながら、母と出会えたことを嬉しくも思う。
自分を産んだ人間をつかまえて「出会った」と言うのも変だけど、そう思う。
二人で一緒に笑って泣いてケンカし合って今があることを、この上ない関係の結果だと思うから
勝手に母が死ぬ日を想像して悲しくなるんだと思う。
きっと結婚している人達は、恋人がいる人達は、子供を持つ人達は、大事な人がいる人達は同じことを思ってるんだろうな。
母一人でもこんななのに、私は別のもっと全然関係ない他人に対して同じことを思うなんて恐ろしくてとてもできないと思う。
自分が一番下っ端とか、末っ子とか、何も持たない者としての立場に慣れすぎて、失うものが増えることに対しての恐怖が強すぎる。
母はこういうのをどこかで感じていることもあって、恋愛を遠回しにすすめてくるのかしら。



こっちに戻ってきたらまわりの人は、雨のせいかブーツを履いたりしていきなり冬みたいな格好をしてた。
金曜の天気に合わせた薄着の私は、冬支度の人達に囲まれて、群馬にいる間に置いてけぼりを喰ったような気になった。
実際風邪もひいたみたい。
実家に帰る時はいつもなぜか生理で、そのせいで体調を崩してからこっちに戻ってきたりする。
どこかに出掛けて体調を崩すことなんてあんまりないのに、なんで実家で起こるんだろう。