木曜日の夜に連絡があり、
その日、9月3日13時頃に父親が亡くなったことがわかりました。


父親はまだ伯母の世話を受けていて、
伯母の自宅近くにアパートを借りてもらい、
食事は毎日伯母が運んできてくれていたらしい。
いつものように伯母が夕方5時頃食事を持って行くと
いつもは出てくるのに出てこなかった。
伯母が部屋に入ると、
父は頭を部屋の入り口に向け、うつ伏せで倒れていたらしい。
検死を担当した医師によって書かれた検案書の死因の欄には「心不全」とあった。
心臓が機能しなくなったら生きていけないので、
心不全という状態が死因になるのかよくわからないけど
保険のこととかもあるので、「事故死」とするわけにもいかないのだろう。
検死が行われたのは恐らく6時近かったのではないだろうか。
死亡推定時刻も13時「頃」と、死因くらい曖昧なものだった。
というか、病院で息を引き取らない限り、
○時○分、なんて死亡時刻は克明にわからないよな。
とにかく、父親はアパートの部屋で、布団に躓いたのか、足がもつれたのか、はたまた何かにぶつかったのか、それとも心臓の機能に突然問題が起きて倒れたのか、
硬いフローリングの床に顔から落ちて命を失くしたようだった。
先月21日に誕生日を迎えたばかりで、62歳だった。


金曜の朝早く兄とマンションを出て、初めて父が住んでいたアパートに向かう。
乗り換えが多く、降り立った目的地の駅で先に来ていた姉と落ち合い、
きょうだい3人でタクシーを拾うも
土地勘もなくアパートの外観もわからないので手こずった。
家を出てから3時間くらい掛けて、ようやく着いた父のアパートは新しくこぎれいなところだった。
ここに移ってからまだ半年くらいだと後で聞いた。
父の死に顔は、簡単に言うとひどいものだった。
頭から床に突っ伏したため、全体が赤紫色になっていた。
最初私はその顔に違和感を覚え、少ししてからそれが、鼻が曲がっていくぶん腫れていることに起因していると気付いた。
髪も眉も黒いままだった。
着ているパジャマは上下別だったが家にいた時のような汚れはなく
馴染んでいるもののある程度洗濯されているようだった。
夏物のパジャマを着た父を見たのは何年ぶりだろうか。
父の顔をこんなに近くで、正面から見たのは何年ぶりだろうか。
父の顔を、こんなにしっかり見たのは何年ぶりだろうか。
どれくらいその顔を、被せられた白い布を両手でめくり上げながら見ていただろうか。
訃報を受けてから、アパートに来るまで、ずっと父親との思い出を思い出そうとしていた。
いいことを思い出そうとすると、すべて母親との思い出になってしまった。
床に正座させられて説教されたこと、
食卓で母に話しかけると「今お父さんがお母さんに話してるんだ」と怒鳴られたこと
遊びにきていたいとこに高い高いをして、私がせがんでやってもらったら
父親が咥えていたか手にしていた煙草の火が私の額について泣いたこと
最初の会社を辞めてから、朝起きて食卓に行くと丸めた背中でお酒を飲んでいたこと
祖父のお葬式が終わって家に戻ってから、親戚がいる前で、日本酒を飲みながら机に突っ伏して泣いていたこと
居間に引きこもっていたこと
兄と私が、その居間で病院に行くよう話をしたこと
猫が死んだ時も、犬が死んだ時も、ぼんやりしていたこと
会社に勤めている時は毎朝制服を着て、出掛ける前に父方の祖父母にお線香を上げていたこと


父親と話し合ったこと、父親から掛けられた言葉を思い出そうとしても
あんまり思い出せなかった。
だから、お通夜や葬儀でここにいる間、ここで起きる全てのことを覚えておかなくてはならないと思った。
中でも父の死に顔は、一番記憶に留めておかなければと思った。




最後のはてなの日記で、私はお盆に、もっと頻繁に顔を見せて親孝行をしないとなと気付いたんだった。
そこに気付いたのに、その時私は父親のことを父親として認めたくなかったから、恨んでいたから
親孝行といえば母親に対しての親孝行しか頭にうかばなかった。
でも、もう遅いけど、住所を聞いていたんだから手紙を書くくらいすればよかったのかもしれない。
父に会いに行くなんてつらすぎて出来なかった。
手紙を書こうにも、何も書けなかった。
私と母がいた家から出て行ったんだから。
父親が出て行った日、祖父母と昔に亡くなった友人の写真は持っても
私達家族や、子供の写真はきれいにアルバムに残っていたのを見た時
捨てられた、ほど悲観的ではなくても
私は、やはり父は私達のことなどどうでもよかったんだと
私は可愛がられていなかったんだと思って悲しかった。悔しかったし恨めしく思った。
祖父母が亡くなって、親孝行をもっとしなきゃいけないと気付いて
父が亡くなって、私はもっともっと父親に甘えたかったんだと気付いた。
父親と仲がいい友達の話を聞いたり、街で連れ立って歩く父子の姿を見たりして、
いつも羨ましかった。
自分と父親の関係を思うと悲しかったし嫌だった。
父が家を出て清々した。
あの姿をもう見なくてもいいと、母もつらい思いが軽減されると思って清々した。
早く死んでくれればいいのにと思っていた。
訃報を受けてもそれほど動揺はなかった。
思ったのは、死なれたら、もうこれ以上恨めないから悔しい、ということだった。
もっとああすればよかった、こうすればよかった、人が死ぬと、他の人はそう思う。
私も、ああすればよかったのかもしれない、何かできたかもしれない、と思う。
でも、あの家に父と3人だけでいた、私と母にしか分からない。
もうギリギリの状態だった。
他の人がどう言おうと、母は精一杯のことをした。
その後世話をしてくれた人達にももちろん感謝してる。
今気付けたことは、昔では気付けなかったと思う。

今はただ、父の冥福を祈るだけ。
父の遺骨は実家にある。
実家近くに祖父が建てて、祖父母の遺骨があるお墓にこれから納める。
家を出た時には誰とも挨拶をしないままだったけど
これで久しぶりに、おかえりなさいが言えるのかもしれない。
あ、でもこれから三途の川を渡るのか。
じゃあ、出掛ける前に1回戻ってきたってことで。
これでようやく、「父親」ではなく、また「お父さん」と呼べるように私の中で整理がついた気がする。